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カトマイ国立公園というのは、熊見物が名物になっているくらい熊の多い所である。広大な公園はナクネクやキングサーモン村にほど近く、アラスカでも有名な観光地の一つとなっている。開高健の「フィッシュ・オン」でも有名なキングサーモン村に降り立つと、村のどん詰まりには高級ロッジの隣に、パークレンジャーの事務所を伴ったビジターセンターが設置されている。このカトマイでは熊を特別に保護するとともに、熊の生態をすぐ傍で観察できる観察台が、近くのブルックスキャンプに設けられているのだ。世界中から集まってきた観光客達は、キングサーモン村からエアタクシーでここに送られ、熊の迫力を存分に堪能するという仕組みである。
その名前からしてわかる通り、キングサーモン村は鮭属、特にキングサーモンの好漁場として有名だ。また周辺の河川は大型のレインボートラウトの釣り場としても有名なのである。それはこの辺りの河川に急流が多く、レインボー達の生息に適していることが大きな理由なのだが、アラスカ州では特にこの特徴を最大限活用するために、National Wild & Scenic River を指定して、周辺環境の保全を計っているのだ。National Wild & Scenic River では、特に釣方やバグリミットが厳しく制限されており、また周辺環境の商業利用も厳しく監視されている。
さて、このカトマイ公園の中にアラグナックという川が流れている。クカクレック(Kukaklek)という大きな湖から流れ出したアラグナック川は、急流60キロ余りを大河・クビチャク川まで流れ下るのである。この川は典型的なリモートリバーで、もちろん周辺に道路は一切付いていない。川に到達するのも、そこから脱出するのも、すべて船か空路によるのである。
キングサーモン村でセスナのチャーターを探していた俺は、中々飛んでくれるパイロットが見付けられず、苦戦していた。そろそろシーズンが始まろうという6月では、セスナの予約も一杯、俺のように行き当たりばったり、飛び込みでパイロットを見付けるのは難しいことなのだ。どうしようもなく相場より高い料金だったものの、飛んでも良いというチャーター機を見付けて、日々の宿の料金さえ苦になり始めていた俺は、半ば自棄気味にその話に飛びついたのである。料金は往復で800ドル余り、相場の2倍近い値段だった。
飛行場でみたそのセスナはヘリオクーリヤー、特別な翼を装備した近距離着陸用の小型機であった。料金が高いのももっともな話で、この機は本来離着陸距離が100メーター程度で可能という特殊な飛行機なのだ。そのために特別強力なエンジンを搭載しているのだが、もっと特別なのはその翼の構造で、本来後端にしか付いていないフラップが前端にも設けられており、強力な揚力を得た機は、通常よりずっと短い距離での離着陸が可能なのである。
機内での会話によると、機長はアラスカの出身ではなく、カリフォルニアからアルバイトで来たのだという。今年が初めてのアラスカで、シーズンが終わるまでにがっぽり稼いで帰りたいとのことであった。機上からピックアップ地点を物色してから上流に向かうのだが、このパイロット、今年が初めてだからどこが適地かわからない、この辺ならどこでも良いだろう、ここなら問題なく降りられるよ、という言葉を信じて適当に決めたのだが、これが大きな間違いであると知ったのは、後になってからのことだったのだ。
無事クカクレック湖に着水して、10日後のピックアップを約し、機は飛び立ったのである。湖の流れ出しは有名な釣り場の一つとなっており、近辺のフィッシングロッジからセスナで舞い降りた釣り師達のお祭り状態、俺も早速対岸からその末席に加わったのだが、70pクラスを筆頭に60クラスの虹鱒が良く釣れ、高い金を出したかいがあった、と俺はスッカリ気を良くしていたのである。
流れ込みでの釣りにも飽きた俺は、ボートで川を釣り下ることにした。流れは思ったよりも急流で、漕がなくてもドンドン先へと進んでいく。結局流れ込みがもっとも良い釣り場で、上流部は釣りよりもむしろラフティングに向いているような荒れ川だった。流れに乗ってあっという間に上流部を流れ下った俺は、早々に大支流であるノービアヌック(Nouvianuk)の合流点に達していた。
合流点でボートを止めてウロウロしていた俺は、熊の足跡に気付く。今日はこの辺でキャンプを張ろうとアチコチ偵察していたのだが、川原の石には熊の足跡がアチコチに付いていたのだ。恐ろしいことに、石には熊の爪跡がクッキリと付いていた。人の爪ではキズさえ付かない硬い石の上に、深さ1ミリほどの溝が4本、ハッキリと刻み込まれていたのである。熊はこの石の上で足を滑らせたのに違いない。しかしそれにしても、熊の爪の硬さといったら全く驚くべきものだと思った。
所々の川辺でキャンプを張りながらも、俺は熊に出会うこともなくピックアップ地点に辿り着いた。しかし思ったよりも流れが急だったために、約束の期日より3日も早く到着してしまったのだ。プットインの時に適当に場所を決めてしまったせいで、着いた所は茫々とした草原が広がる何もない河口地帯だった。上空から見ていたのとは違い、泥地が多くてキャンプの適地は見当たらない。
やたらと高い川岸になんとか荷物を運び上げた俺は、早速テントを張って、夕餉の用意を始めたのである。それは俺が米をといで炊飯を始めた直後だった。手持ち無沙汰に覗いていた双眼鏡に、それはいきなり姿をあらわしたのである。レンズの中で動いているのは紛れもないブラウンベアで、川岸を上流からこちらに向かって歩いて来る最中だった。その距離およそ500メーター。
ぶったまげた俺はすぐに炊飯を止めると、テントを畳む間も惜しんで張ったままボートに積み込み、慌てて船に飛び乗った。熊の姿をジックリと目にしたのは、その時が生まれて初めてのことだったのだ。パニックと言って良かった。急がないと熊に追いつかれてしまう。ただその思いだけで川に漕ぎ出してみたものの、川は満潮の影響を受け、流れは川下から川上に向かっていた。必死にオールを漕ぎ続けて少しづつ下流に向かい、ここなら大丈夫だろうと対岸に再びテントを張ったのである。
しかしその安心も長くは続かなかった。対岸に姿をあらわしたのは先ほどとは明らかに違う熊、泥地を歩くキュポンキュポンという足音が、対岸まで響いてくるくらいである。そしてすぐ後にまた違う熊が、今度は子連れで現れた。ここは熊の巣だ!! そう気付いた時は事態は抜き差しならなくなっていた。なぜならこちらの川岸にもベアトラックがクッキリと伸びており、いつ対岸の様に熊が現れても不思議がない状況だったからである。
俺は再びテントを積み込むと、安全な場所を探して再びボートを漕ぎ出した。しかしアチラにもコチラにも熊の足跡だらけで、岸辺の泥地にはつい先ほど付いたに違いない足跡が一杯残されていた。もはや間違いなく熊だらけだったのだ。岸に上がると襲われる危険があるし、かと言ってボートの上では狭くて眠られない、俺は夜中の11時過ぎまでボートで漂流を続けた挙句、辺りが暗くなってきた12時過ぎには、半ば襲われるのを覚悟で岸辺にテントを張ったのである。そこは泥地の上に浮かんだ直径2メーターの浮き島のようなところで、熊が近づいてくればグチャグチャいう音が聞こえるだろうという想定に基づいたものだった。なによりボートを漕ぎ疲れていて、もう半分どうでも良くなっていたのである。
幸いその夜は襲われずに一夜を明かすことが出来、翌日は安全な場所を探して一日ボートを漕いだ。結局分かったことは、そこは干満の影響を強く受けるタイダルウォーターであり、キャンプ地としては最低の立地だというこだった。しかも熊の気配が猛烈に濃く、こんな所でキャンプを張っているのは、どうぞ襲ってくださいというに等しい暴挙を俺はやろうとしているのだ、ということだったのだ。
どこに行っても熊からは逃れられない。そうわかると、もはや覚悟を決めるしかなかった。俺は最も地面のシッカリしている高台を選び、ベアトラックの真上にテントを張った。辺りはベアトラックだらけだったので、それを外してテントを張るなど不可能だったからだ。やたらと川岸が高いのは潮の干満の影響を受けるからで、干潮時には精々腰ほどしかない水深が、満潮時には川岸の上部まで洗うようになり、水深も軽く4メーターを越えるのだった。
結局俺はこの高台で2日半を過ごした。人間の存在がそこにあることを示すためにラジオを大音量で掛け続け、常に熊除けセットを持ち歩いた。音に極端に敏感になり、何か気になることがあったらすぐにテントから顔を出し、常に熊の動静に気を配った。熊は対岸を歩く姿を何度も見かけたが、幸いコチラの岸には現れなかった。結局3日間とも俺は熊に襲われることなく、無事約束の期日に拾い上げてもらうことが出来たのである。
さて、この経験から一体なにを学ぶことが出来るであろうか。先ず、パイロットを雇う時には、素人とは絶対に飛ぶなということである。俺が件のパイロットに、よくも俺を熊の巣で待たせたな、襲われる危険があったんだぞ、と訴えた時、この間抜けなパイロットは、俺は来たばっかりだし知らなかったんだよ、次からはあそこは絶対使わないよ、とのたもうたのである。ベテランパイロットなら、絶対にこんなことはしなかったろう。なぜなら彼らブッシュパイロットは、プットインした客の安全に責任を持っており、万一客が事故で戻らない時には自らの責任で捜索に出なければならないからである。
素人だけが、平気で熊の巣でもなんでも、手近な自分の着水しやすい場所をテークアウト地点として選ぶのだ。それは彼らが自分の飛行技術に自信を持っていないからであり、また危険な場所や好漁場の情報も全く所有しておらず、彼らにとっては安全に着陸できるというとても低い次元の要素だけが、先ず第一に来てしまうのだ。
次に気付くのは、なぜ熊の巣で俺の傍にだけ熊の姿が現れなかったのかということなのだ。対岸には毎日熊が往来しており、対岸だけで俺は3日間で12回熊を見た。間違いなくコチラ岸のベアトラックにも、熊が多数出没していた筈なのだ。その答えは一つ、熊が注意深く俺と出会うのを避け、俺とトラブルを起こさぬ様に気をつけていたからに他ならない。ここの熊は人がどういうものであるかを良く知っており、人に会うことは危険だと自ら引いていたのである。
熊は本来とても臆病で、人と出会うことを注意深く避けているものなのだ。間抜けな俺のような存在が彼らの楽園の真中に居座ってしまったため、彼らはさぞや迷惑な思いをしていたことだろう。ほとんどの場合、確かに彼らは人間を避けてくれることが多い。しかし中には必ず例外があるので、今度はその例外のいくつかを、この後引き続いて検証していきたい。