はじめてのキャンプとの出会い

俺がはじめてキャンプを体験したのは、高校2年の時だ。それまでにもキャンプというものがあることを知ってはいたし、野山にテントを張って、その中で生活するのだということを聞いてもいた。しかし如何せん、俺が生まれたのはとんでもない丹波のド田舎であり、そもそも野山の中で、自然に親しみながら生活するなどという発想は、周囲に全くないと言って良かった。田舎では、野山などというものは草刈や山の下草刈りの対象であり、ナンと言っても面倒で手がかかるものというのが、先ず最初に頭に浮かぶものであるからだ。したがって、野山の只中で現に生活する我ら田舎者に、アウトドアで生活を愉しもうなどという発想がなかったのももっともなことである。子供の頃の夏の楽しみといえば、地元の子供会が小学生を対象に企画する、近場での海水浴くらいのものであった。

そう言えばハンゴースイサンというのを、やはり小学生の頃に一度やったことがる。ハンゴースイサンというのは一体なんだろうと子供心に不審に思ったものだが、漢字で書けば飯盒炊爨、つまりハンゴーで飯を炊いて食うことであった。飯盒などをキャンプで使う人は、現在ではほとんどいないのではあるまいかと思うが、この頃にはキャンプと言えば、兵隊さん譲りのハンゴーが何を置いても必要だったという訳である。

さて、そんな山また山のド田舎、「丹波篠山やまがの猿が、はなのお江戸で芝居する」のデカンショ節でも全国的に知られているくらい田舎生まれの俺にも、はじめてキャンプを体験する時が巡ってきた。当時から釣りキチで鳴らしていた俺は、やはり釣りを通じて知り合った他校の生徒と二人で、釣りを兼ねたキャンプを敢行することにしたのである。

当時何らキャンプについての知識がなかった俺は、やはり釣りキチであったその友人のキャンプ経験に頼る他なかった。幸いその友人の後輩にボーイスカウトのメンバーがおり、その中坊を釣行の度にバイクの後ろに乗っけて連れていってやるという約束と引き換えに、我等は無事装備品のテントを借りてもらうことに成功したのである。テントはコットンダック製の非常に重くまた馬鹿でかい代物で、ポールやグランドシート、フライシートなどを含めると、バイクに載せては運べないくらいかさばるものだった。

免許を取り立てだという釣友の兄に車を出させることに成功したので、テントは彼の車で運んでもらうことにして、俺はカアチャン愛用のヤマハ・バーディ(ホンダのカブに良く似た50ccのオバチャンバイク)にまたがり、彼の兄が運転する車の後を追ったのである。

無事湖岸の流れ込みにある空き地に到着し、彼の兄やボーイスカウトで経験の豊富な中坊からアレコレと指図を受けながら、どうやらテントの設営は完了した。空は少し曇り気味だったが、まだこの頃には雲の切れ目から青空ものぞいていたのである。周囲には他のパーティの姿もなく、シンと静まり返った針葉樹の森が広がっているばかりである。未来は我らのために輝いているように思われた。

昼飯はすでに家ですませて来ていたので、我等は早速釣りに出かけることにした。これこそが我らがキャンプに来た主な目的なのであり、キャンプは宿泊代を浮かせるための方便に過ぎなかった。だから装備といっては俺が件のハンゴースイサンの折に買い求めた飯盒と、各々の寝具としてのタオルケット、それに食料として缶詰少々と米、というお粗末なものだったのである。箸は笹を削って作ることにしたため、スプーン一つ持っていない始末だった。しかし我等は暗くなるのを気にせず、思う存分釣りができるというので上機嫌だった。幸先の良いことには、早速夕方のマズメ時に俺の釣友がバスを1匹釣り上げることに成功し、この頃バスがまだ貴重な釣果だった俺達には、明るい未来が約束されているように思われた。俺達は焚き火で炊き上げた飯盒飯をかっ食らうと、翌日の好釣果を期待しながらタオルケットに包まったのである。

そんな俺達に異変が起こったのは夜も更けてからのことだった。雨が降り出していた。そしてそのせいでテントはたるんで湿っぽくなり、気温もかなり冷え込んで来ていた。俺達はあまりの寒さで目を覚まさざるを得なかったのである。雨は最初シトシトと続いていたのだが、その内本降りになりだした。そしてたるんだテントは益々下に垂れ下がり、フライシートが本体にくっついて縫い目からは水滴が滴るようになってきた。

広いテントもこうなるともう寝てはいられない。あまつさえ寒さで足先がしびれているのだが、俺達はこの後まんじりともせず夜を明かすことになってしまった。

夜が明けても、雨は一向に降り止む気配がない。8月とは言え、湖はアマゴが棲むような渓流を堰き止めてできたものである。振り続く雨と相俟って、朝方にはかなり冷え込んでいた。しかしここで困ったことが起きた。雨が振り続いているので焚き木がしとどに濡れて、火が使えないのである。例え乾いた木が見つかったとしても、雨をよけて火を起こせる場所が見当たらないのだった。

俺達は食料計画を飯盒飯と少量の缶詰に頼ることにしていたので、飯が炊けないとなると完全な誤算だった。缶詰だけでは腹は膨れないし、毎食ごとに1つの缶詰を二人で分け合ってオカズにするというのが我らの計画だったのである。雨はその日1日降り続き、結局俺達は缶詰以外の食料を何も口にすることができずに、その日をすごすことになった。

翌日寒さと空腹の中で目を覚ましてみると、雨はまだ霧雨のように振り続いていた。缶詰はもはや残り少なくなっており、腹がへった俺達は米を生噛りすることにした。しかし米というのは炊いてこそ食料になるもので、とても生のままでは食べられたものではない。バリボリとしばらく無駄な努力を続けた挙句、俺達はその事を痛感させられたのである。

予定ではまだ2日もキャンプすることになっているのに、もう食い物は切れかかっており、おまけに火を焚くことさえできない。火が焚けなければ暖を取ることは愚か、食事さえもできないのである。ついに万事休してしまった俺達は、雨の中を乾いた木を探して歩き回ることになった。テントのグラシ(グランドシート)を剥がして、その中で焚き火をしようというのである。しかしもちろん2日間も振り続いた雨の中で、乾いた木など見つかるべくもなかった。

途方に暮れていた俺の目に飛び込んできたのは、空き地の隅に止めてあった工事用のブルドーザーである。もちろんイグニッションキーは抜き去られていたが、燃料タンクには軽油が少し残っているようであった。そして幸いなことに、その底部にはコックが付いており、そこから燃料を抜き取ることができそうだった。

俺は食い散らかした空き缶の一つをコックの下に持って行くと、中の燃料を頂戴することにした。燃料は結構入っているようで、缶はすぐ満杯になった。俺は早速その缶をテントに持ち帰ると、火を付けてみた。が、付かない。当然のことである。揮発性が低い軽油は、そのままでは着火しないのである。何か芯になるものが必要だ。俺達は蝋燭の蝋をもぎ取ると、その芯を灯油の中に浸けて使うことにした。

軽油の外に突き出た蝋燭の芯のおかげで、無事、チョロチョロとした炎が燃え上がった。ヤレヤレ、ホッとした。缶の外に出る芯の長さを調節することで、火の大きさは簡単に調節することができることがわかった。軽油だから黒い煤が上がったが、そんなことには構っちゃいられない。俺達は喜び勇んで雨の中に飛び出すと、米を研ぎにかかった。

残り2日間の食料は、全てこの軽油缶ストーブで調理した。燃料はなくなるたびに、ブルドーザーから失敬しに行った。おかげで俺のハンゴーは底が煤で真っ黒けに変わり果てたが、飯がチャンと3食食べられたのはなによりだった。雨のためにその後も釣りはほとんどできなかったが、俺達はとにかく無事にキャンプを終えることができたのである。

その後俺は大学2年の時に釣り研に入部し、そこで再びキャンプに出会うこととなるのである。入部が2年だったのは、1年目は教養部が静岡の三島だったためであり、そこには残念なことに釣り研というものが存在しなかったからだ。その代わり、恵まれた釣り場環境で釣りを堪能することができたのだが・・・・・。

釣り研でのキャンプも遠征時の宿泊費を浮かせるという意味合いが強かったが、一つには人里はなれた奥山まで足を伸ばすための一便法という面もあった。何しろ渓流釣りというのは奥山での釣りであり、人がいない奥地に行けば行くほど良い釣りができるというのが当時の常識だったのである。しかし釣り研のキャンプには団体装備としてのテントとストーブが常に完備されており、そういう意味でも俺の最も印象深かったキャンプは、最初に行ったこの無謀とも言える大失敗の行き当たりばったりキャンプ強行軍である。