日高幌尻川は上流部にゴルジュが発達しており、沢登り屋には中々人気がある。かつて俺も、沢登りがてら渓流を釣り上ってみることにしたのだった。しかしこの川にもかなり奥まで林道が伸びており、釣りに対する俺の熱意はそれほど強いものとは言えなかった。朝遅くに出立して適当に竿を出した挙句、午後も早々に引き返すことにしたのである。

この川周辺にも熊の出没が多いことは良く知っていた。かつて禁漁区見回りのお爺さんとこの川辺で話をした折り、林道で熊に出会った話を聞かされていたからである。実際林道には大きな熊の糞がそこここに転がっており、いかにもという雰囲気はしていた。

熊の糞は、人間のそれの形にとても似ているところがある。ただしサイズはずっと大きくて、2メーターほどの大男がモッコリいたしたら、これくらいのものになるだろうか、というくらい大きいのがとぐろを巻いているのだ。ここ日高幌尻のもまさにそんな感じで、これ見よがしに林道の真中に盛り上げられたものが、雨と日光のさらすがままに白けているのだった。

糞が白けているのは時間が経過しているからで、差し迫った熊の危険はないという良い兆候だ。俺はその様に考えつつ、長い林道を一人歩き続けていた。すると奥から赤いランドクルーザーがやってきて俺の傍に止まり、「乗ってくか」と声を掛けてくれたのだ。

長い林道歩きに飽きていた俺は、これ幸いと有り難くお言葉に甘えることにしたのだった。古びたランクルの後部座席にはライフルが置いてあり、銃器など間近に見たことのなかった俺は、チョットビックリさせられたのである。声を掛けてくれたのは近くに住む熊打ちさんで、一人でこの林道を歩いていると危ないから、つい声を掛けざるを得なかったのだと言う。

「猟の小屋が近くにあるから寄ってけ」とのお誘いで、林道脇の造林小屋に招待された俺は、そこで熊打ちさんから色々と興味深い話を聞くことが出来たのである。

それによると、日高近辺でビッチリと熊打ちをやっているのは彼を含めて4名、彼一人では毎年8〜10頭の熊を獲ると言う。そして驚いたことに、毎年の様にこの辺りでも手追いの熊を出すと言うのである。手追いの熊というのは、もちろん狙いを外して、鉄砲キズを追わせたまま逃がしてしまう熊のことである。彼によると、特にこの辺は危ないとのことだったのだ。それが俺をわざわざ林道で拾い上げたくれた理由、そしていかに手追いの熊が危ないか、状況を理解していないことが大事故に繋がり得るかということを、やんわり諭されたという訳である。

熊情報を得るのに大抵の人が頼るのは、精々手近にある営林署からということの様だ。これは仕事で山に入る営林局員は、熊にも詳しいだろうという想定の上に成り立っている。確かに営林署は管轄の林道や伐採現場などついて、それなりの情報を持っている。しかし彼らは元々熊や野生生物の管理機関ではない。単に業務上必要な情報として、または林野を管轄するものとして、便宜上集まった情報のいくつかを公開しているに過ぎない。日本では、例えばアメリカで見られるようなNational Fish & Wildlife Serviceとか、Department of Fish & Gameとか、Visitor Information Centerとか、Bureau of Land Managementといった様な重層的な情報管理機関がない。国立公園のパークレインジャーさえ満足にいないのが日本の実情なのである。

個人的な体験から言えば、彼ら営林局の人間は、熊について驚くほどショボイ情報しか持っていないことが多い。実際に熊に間近で出会ったことのないものがほとんどで、熊に出会った時にどうすれば良いかということを知っているものはほぼ皆無なのだ。会ってしまえば鉈でぶっ叩けば良い、それでも駄目なら死んだ振り、くらいの認識しかないのが正直な所である。もちろん彼ら自身は、本当に熊に出会った時にどうすれば良いかなどはなから分かっちゃいないのだが、その癖内地の人間には、これ見よがしに伝え聞きの知識を披露して脅かしてくれる。バカバカしいったらない。

役所で働く彼らよりは、地元に暮らす人間たちの方が、より現実的な情報を持っていることが多い。それは熊という存在が、彼らの生活に直接影響を与える恐れがあるからだ。残念なのは、そのような貴重な情報が一般の人間には伝えられるすべもないことである。もしも貴方がたまたま地元に暮らす人間から話を聞ける幸運を持てるようになった場合、是非その話にはジックリと耳を傾けて頂きたいものである。