カネクトックというのは、トギアックよりも更に川二つ向こうにある中規模の流れである。ここはコマーシャルフィッシングトリップ、特にリバーフローティングを専門にする業者がいることからも分かる通り、流れは緩やかな割りに魚影が濃く、また周囲の環境も素晴らしいものがあるので、シーズンには多くの旅行者・釣り人達が訪れる。

コーホー(シルバーサーモン)をやるんだったらここだな、例によってそういう風に焚き付けられた俺は、再びトムとともに機上の人となったのだった。カネクトックはかなり有名な川なので、ディリンガムからはコマーシャルトリップの連中が中型のチャーター機を定期的に運行している。シープと呼ばれる水上飛行機は定員が15名ほどもあるので、本当はこちらを使えば団体料金で安上がりに飛ぶことが出来るのだが、例によって群れることを好まぬ俺の性質だから、敢えてチャーター機を飛ばすことにしたのである。

小型機のチャーターは料金も高く確かに贅沢だが、周りの景色を独り占めにできる利点もある。ベテランのパイロットなら、逐一周囲の景観やそこに棲む動物達の解説までしてくれるので、アラスカをより詳しく知りたい向きには、一度は試してみて損はないであろう。

さて、機は無事にペガチ(Pegati)レークへと舞い降りた。欲を張って流れ込みに着水する様に頼んだのだが、そこはか細い流れが1本入っているだけ、その他には細い潅木がまばらに茂り、ツンドラに覆われた大地が広がっているだけだった。そして湖岸には例によって熊の足跡が続いているのだ。

流れ込みでは、流れの細さの割りには大型のアークテックチャーが釣れる。60センチクラスを10本も挙げたらもう充分という気分になってしまい、俺は流れ出しに向かってボートを進めることにした。

1時間もボートを漕ぎ続けていると、湖岸に良さそうな流れが注いでいる。早速ボートを着けて釣り始めると、ここでもアークテックチャーが入れ食いである。こういう場所は得てして熊の良く出るポイントだ。流れ込みには彼らの食料である鮭やマスが良く集まるからである。釣りを続けながらずっと聞き耳は立てていたのだったが、何本かリリースした後で耳を澄ませてみると、風に乗って小枝の折れる音が聞こえた様な気がした。

やっこさん、お出ましだな。この頃俺は、ほんの少しの気配でも熊の出現を感じられるほどに神経が研ぎ澄まされていた。小枝の折れる音は徐々に近づいて来たが、俺の方には向かって来ず、俺の背後の潅木の中を回り込んで、徐々に遠ざかっていく様だった。

もちろん姿は見えないから、これはムース(ヘラ鹿)なのかもしれない。あるいはカリブー(トナカイ)かもしれないし、ポーキュパイン(ヤマアラシ)や狐だって音を立てることはある。しかし慣れて来ると、音の感じでどんな動物か、ある程度推測を立てることが出来るようになる。ムースなら体重がすごく重いから、バキバキといった音よりは、馬が歩く様なドカドカと重量感に溢れた蹄の音がするし、カリブーなら群れで動くからブーブーととても騒がしい。ポーキュパインや狐はカサカサいう音で、重量感が全然違う。

ノンビリと、あるいは堂々とバキバキいわせて歩いてくる動物は、アラスカではほぼ間違いなく熊である。彼らはアラスカでも生態系のほぼ(というのは、人間の存在も考慮しなければならないから)頂点に君臨し、人間を除いては、熊それ自身くらいしか天敵が存在しない。だからまるで毒蛇の様に、いつでも悠々として急がない。

しかし熊同士では、壮絶な生存競争が存在する様である。例えばブラウンベア同士では縄張り争いがあるし、繁殖期にはメスをめぐっての争いもある。ブラウンベア(ヒグマ)はブラックベア(ツキノワグマ)を捕まえれば殺してしまうし、逆にブラックベアがブラウンベアの子供に出くわせば、ほぼ例外なく殺してしまう。彼ら同士、お互いの存在がライバルという立場になっているからである

ペガチレークの流れ出しには、コマーシャルリバーフローティングのテントが立ち並んでいた。そこから時たま大声で騒ぐ声がする。魚が釣れる度に、ヤンキーどもが雄叫びを上げているらしい。群れが嫌いな俺は、ずっと離れた湖岸に一人テントを張った。夜になると狼の吼える声が物悲しく響いてきて、ジャック・ロンドンの「荒野の呼び声」など思い出し、俺は感傷的な気分に浸った。

狼は一匹二匹ではほとんど人を襲うことはないと聞く。特にカリブーの群れを追って移動している夏の間は、彼らもエサには飢えていないので、襲われる確率はとても低いそうだ。しかしウッカリ群れに囲まれてしまったりすると、銃を持っていてもやられる場合があるそうである。例えばカリブーだって、頭突きを食らえば只事ではすまないのだから、用心だけはしておいた方が良い。

コマーシャルフローティングの連中とはなるべく顔を合わせない様に、早朝に船を出す。奴らは朝寝坊で、8時になってもテントはまだひっそりとしていた。流れ出しでは残念ながら釣りは出来なかったが、川は今まさにチャーの遡上期で、浅瀬ならどこに投げても当たりが来る状態である。彼らは来たるべき産卵に備えて集いつつある訳だが、その旅の途上ですでに産卵を終えた鮭の産卵床を食い荒らし、たらふく栄養を蓄えているのである。

そんな訳だから、鮭の産卵床と思しき場所にエッグフライを投じてやれば、たちどころに食い付いて来る。型はどれも50センチオーバーの大物ばかりだが、毎日の様に大物ばかり釣っていると、50や60では驚かなくなる。しまいには新鮮さも感動も失せてしまい、やれやれまたチャーか、たったの60センチか、といったとてもよろしくない状況に陥ってくるのである。

俺はそんなだらけた感じで、ボートの旅を続けていた。霧のような雨はここ2週間降り続き、透湿素材の雨具は既に防水性を失って、全身がジットリと湿った感じがしていた。厳しい気候のアラスカでは、ゴアテックスの様に中途半端な雨具は長続きしない。疲れと寒さでスッカリやる気を失っていた俺は、雨が弱くなるまでしばらく停滞することに決め、テントの中でひたすら横になってゴロゴロしていたのだった。

その間にどうやらヤンキーの連中に追い付かれてしまったらしい。相変わらず止まない雨の中で嫌々ボートを出していると、小うるさい連中が下ってきた。一人で下ってるのか?どっから来た?いつ来た?いつ帰る?誰にプットインしてもらった?どこまで行く?今日までに何本コーホーを釣った?それはどの辺のどういうポイントだった?使ったフライはなんだ?熊には遭ったか?一緒にコーヒーを飲まないか?いやはや質問攻めである。異邦人である俺に、かなり興味があるらしい。それとも同じ顔ぶれで毎日過ごさなければならないフロートトリップに、そして川を降って釣りをするだけの単調な毎日に、いささか嫌気が差しているのか?

彼らに先を行かせることにして、俺は後からノンビリ降ることにした。しかし彼らは中々そうはさせてくれず、すぐまた下流で大騒ぎをしている。どうしたのかと寄って行くと、そこには開きにされた動物の死体があった。熊の仕業だよ。カリブーの子供をここで襲ったんだ。後で食うつもりで隠してあるんだよ。そうガイドが教えてくれた。そんな所に上陸するのは危ないんじゃないかと尋ねてみると、な〜に、俺達は大人数だし、銃も持っているから心配ないという話だった。辺りに飛び散った鮮血の赤と、原型を留めないまでに開きにされたカリブーのなれの果ての姿、そのあまりのおどろおどろしさに、俺は身震いした。

また騒々しい彼らのお祭り騒ぎに巻き込まれるのは真っ平だったので、俺は更にボートの進行をゆっくりにし、不必要なほどに船足を遅くしていた。さすがに彼らには日程の都合があるらしく、先を急ぐからと離れていってくれた。

一人ぼっちになって船旅を続けていく。川が浅瀬になった場所で、小熊が二匹戯れていた。俺のボートが近づくに釣れ、こちらに走り寄り、川の中まで踏みこんで来る。俺はファイヤーフレアガンの用意をしつつも、彼らから遠ざかる様に操船した。小熊達は胸のあたりまで水中に踏み込んで来たが、俺は彼らを避けて対岸近くを流れ降って行った。

小熊達は鼻を上げて匂いを嗅ぎながら、俺を見送っている。更に少し近づいては来たものの、遂に襲って来ることはなかった。俺は後方に過ぎ去った小熊達から目を離し、また前方を眺め始めた。その時、岸スレスレを通っていた俺のボートの前方に、じっと俺を眺めている大熊の姿が目に飛び込んで来た。

距離は約5メーターといったところ。すかさず俺はボートの進路を変え、船を熊から遠ざける様に操作した。そしてオールを掴むと、万一熊が川に飛び込んで来た時には、それで頭に一発打ち付けてやろうと身構えた。しかし熊は上目使いでじっと俺を睨み付けるだけで、飛び掛って来たりはしなかった。船の動きに合わせて体の向きを入れ替えただけで、俺の船がゆっくりと流れていくのを見ると、頭を返して上流へと歩み去っていった。俺はその姿をボートから見送りながら、かなり近かったよなぁ、と一人ごちた。

おそらくあの大熊は彼ら小熊の母親で、3匹でエサを探している最中だったのだろう。あるいは上流のカリブーの死体も彼らの仕業だったのかもしれない。本当は母熊と小熊の間に入るのは最も危険な行為の一つなのだが、俺が川の上を音もなく流れていた点、そして母熊がブッシュの影にいて見えなかった点から、おそらく母熊も直前まで俺の存在に気付いていなかったのだろう。いきなり眼前に現れたので、お互いにビックリしてどうしたものか考えあぐねたというのが、正直なところではなかったろうか。少なくとも俺の方はそうだった。

下流部の溜りには鮭の死体が沢山沈んでおり、それらは熊にとって格好のえさとなっている様だった。しかし彼らにとって不幸だったのは、今まさにコーホーの遡上が始まろうとしている時期で、下流からジェットボートでやって来た人間達に辺りが占領されていたという事実である。流れのベンド毎に数人の釣り人が竿を振っており、アラスカのブッシュの川とは思えないほどの混雑振りだった。もはや熊の恐怖は感じられなくなっていたが、代わりに人間達の騒々しい歓声が、ジェットボートの走り回る音が、そして川辺に張られたロッジ型テントから響くラジカセのガンガンいう騒音が、大自然の静寂とせっかくの一人旅を台無しにしていた。

魚は確かに釣れ盛っている様だった。しかし俺は急速にやる気をなくし、オールを漕ぐ手をいっそう早めると、以後一度も手を休めることなく漕ぎ続け、あっという間にテークアウト地点である飛行場まで達していた。極端に言えば、アラスカで釣りを楽しむには2つの方法しかない。熊の恐怖に怯えつつ、人ごみを避けて一人で釣りをするか、熊の恐怖は全くない代わりに、 エルボーツーエルボー(ぎゅうぎゅう詰め)で鮭の溜りで釣りをするかである。釣果は結局の所、どちらも大差ない。後は各人のお好み次第という訳であった。