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キーナイ川は、巨大なキングサーモンが釣れることで定評がある。アンカレッジから手軽に車で訪れることが出来るという地理的要因もあり、シーズン中は世界中から集まってきた釣り人達でごった返すのだ。また川辺にはログキャビンや高級別荘が立ち並び、まさに世界的なリゾート地の様相を呈している。
しかしそこはアラスカ、ひとたび車の入れる道路を離れれば、原始のままの姿が残された両極端さがもう一方に存在するのである。キーナイ川はスキラクレークから下流をローワーキーナイ、湖から上流をアッパーキーナイと呼び習わしている。ローワーキーナイは日本の標準からすると立派な大河川で、氷河から解け落ちた水が淘々と流れているが、上流部はカヌーやラフティングの練習にも使われるほどの、結構な荒れ川となっているのである。
フロートトリップ初挑戦の俺は、先ずこの川で買ったばかりのラフトボートの練習を兼ねたフロートトリップを決行することにしたのだ。荷物を積み込んで颯爽とクーパーランディングを離岸した俺は、しかしいきなり一つ目の瀬でしたたかに大波をかぶり、全身びしょ濡れ、ボートの中もドップリ水浸しになってしまい、先行きに強い不安感を覚えたのだった。
しかしキーナイの上流部はとてもこんな生易しいものでは済まず、次々に現れる三角立波の瀬に、俺はオールを漕ぎ続けるのに必死で、ただ生きて帰りたい、それだけの思いで船を進めていたのだった。アラスカハイウェイはしばらく川と並走するものの、途中から大きく山を巻いて、川から離れていってしまうのだ。残るは原生林の中を流れる荒れ川と、素人ラフタ―の俺のみという訳なのだった。
必死の思いで辿り着いたスキラク湖の流れ込みは、茫々たる風景が広がっているだけだった。水鳥と熊の足跡が砂浜に記されてはいるものの、他にはか細い潅木が少々生えているばかり、対岸にはもうもうと霧の立ち込める氷河の山々がそびえているだけで、人の記憶をとどめるものなど何一つない。期待した釣果さえ得られなかった俺は、下流部での好漁を願いつつ、その晩は早々に床に付いたのである。
あくる朝起きてみると、湖は大荒れ、ビュウビュウと吹き荒れる強風は、波の高さを2メーターにもしており、昨日の静けさが嘘の様だった。翌日の改善を祈りつつ、1日の停滞を余儀なくされたのである。しかし翌日、その翌日も一向に天気は好転の気配を見せず、日に日に減っていく食料の蓄えを見てついに痺れを切らした俺は、無理やり湖に漕ぎ出してはみたものの、高波のせいで小さなボートはすぐに転覆、結局はボートでの旅を諦めざるを得なかった。そして最終的に、俺はブッシュの中を歩いて近くの林道までエスケープすることにしたのである。
幸い、ブッシュの中に踏み跡を見つけて無事林道まで到達した俺は、ボートに乗せた大量の荷物をすべて陸揚げするために、何度かブッシュの道を往復せざるを得なかったのだ。片道1時間の道のりをほとんどの荷物を運び終え、最後の一回分を林道まで運び上げた時のことである。俺はこれまでに運び上げた荷物の位置が変わっており、その奥には今まさに黒い犬のような物体が俺の荷物を咥えて運び去ろうとしているのに出くわしたのだ。
それはもちろん黒犬などではなくてブラックベア、日本で言うところのツキノワグマで、体長は1.2メートルほどであると見て取れた。「コラーッ」というのが俺の第一声で、反射的に俺は荷物の方に向かって駆け出していたのだ。熊は最初ビクッとして引き返そうとしたものの、すぐに未練ありげに戻ってきて、俺のロッドケースを引きずりながらブッシュの中へ走り去ろうとした。そうはさせじと俺はロッドケースを踏みつけ、それを小脇に抱えて引っ張り戻したのである。
こうして俺とその小熊との奇妙な綱引きが始まった。熊が端をかじりつつ手元に引き寄せようとする。俺はケースを抱えたまま益々強く引っ張る。やがて俺はケースを突き出す様にしてフェイントをかけると、熊は一瞬たじろいだ。その隙に一気に手元に抱え上げて、それで突く姿勢を見せると、やっと奴めは諦めて、ノコノコとブッシュの中へ帰っていったのだ。
熊は大きな黒犬くらいで、つやつやした毛を持っていた。遠目には本当に犬と間違うくらい、大きなものではなかったのだ。しかし奴はすごい爪をしており、分厚い塩ビ管で出来たロッドケースには、ガリリと深いキズが刻み込まれていた。また熊がかじった部分は塩ビが欠け落ち、その力のすごさが今更ながらに偲ばれた。
近くのブッシュには、熊が付けたに違いないと思われる獣道が縦横に伸びており、野生の気配が痛いほどに感じられた。奴はすぐ近くでこちらを伺っているのに違いない。明らかにこの場にとどまっているのは危険だ。熊除けセットをすぐに用意すると、俺はひたすら車が通るのを待った。そして車が通り掛かるや無理やり通せんぼをして、熊が出たので助けてくれと訴えたのだった。幸い荷物とともに拾い上げてもらった俺は、無事スキラク湖の流れ出しまで運んでもらうことが出来、その後の旅を続けることが出来たのである。
後で聞いた話だが、あそこの熊は近辺では有名な悪熊で、住民ともしょっちゅうトラブルを起こしているのだそうである。つい先週もハイカーが襲われ、キャンパーをメチャメチャにされたばかりだよ、と言っていた。知らぬは俺のような通りすがりの旅人くらいで、彼ら地元の人間は驚くほど近隣の熊情報には精通しているのだった。
それによると、キーナイでトラブルを起こしているのはほとんどがブラックベアで、性格もブラウンベアよりも悪いんだそうである。特に鮭の遡上期になると、身体のサイズと力で劣るブラックベアは、ブラウンベアから縄張り外に駆逐されて、エサに飢えたまま人里の方まで出てくるというのだ。そしてしょっちゅうダンプステーション(ゴミ捨て場)などに出没し、エサを漁っている内に段々人間を恐れなくなり、とどのつまりは人間とトラブルを起こして射殺される例が後を立たないと言うのだ。
だから地元の人間が熊情報に詳しいのも無理がない話で、注意していないとそんな熊が大切な鮭の燻製小屋を壊したり、家の中にまで入り込んで来ると言うのである。
キーナイは決して大自然のただ中にあるというような、人間世界から隔絶した場所ではない。しかし熊はむしろ人里近くであるからこそ活発に活動することがあり、人間とトラブルを起こし勝ちであるという良い例だと思う。そして小熊だからといって侮っていると、ひどい目に会う可能性もあるので、十分な注意を払うことが必要なのである。