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新潟の三面川源流部は、沢登りや渓流釣りファンの間でチョット有名である。それはここがかなり険しいゴルジュを伴った秘境とされているからで、西村京太郎氏による「三面峡谷殺人事件」という推理小説まで出版されているほどである。
かつて俺も、この険谷を畑沢上流まで遡ったことがある。やはり噂通りかなりの険谷だったのだが、当時釣り師としての興味しか渓に抱いていなかった俺は、魚止めまでの遡行しか念頭に置いていなかったのだ。今となっては残念な限りだが、せっかくのお楽しみを目の前にして、その価値に気付かぬまま渓を去ったことになる。
そればかりか、相当な険谷という噂の洪水で頭の中を一杯にしていた俺は、早朝に本流との出会いを立って以後竿を伸ばすのもそこそこに先を急いだ結果、昼過ぎには畑沢の出会いまで達していたのである。畑沢は岩魚の宝庫と聞いていたのたが、実際には大変な巨石とゴーロの急沢で、チョットその渓相に失望した俺は、テン場を探すべく早くも下流に引き返し始めていた。
さすがにゴルジュの渓だけあって、畑沢付近にはテントを張るのに適した平地は見付からなかった。ゴロタ石の川原こそ続いているものの、その上で眠ることは難しそうだった。やがて30分余りも下ったころ、俺は左岸にチョット開けた高台を見つけたのだ。ここなら畑沢まで往復できる、今日はここで泊まろう、最初はそう考えていたのである。
広葉樹の茂ったその高台を歩いている内、俺はそこに誰かが付けた古い鉈目を見つけたのである。更にその鉈目を辿っていると、今度は最近付いたと思われるバスケットシューズのような踏み跡を見つけたのだ。その踏み跡はウェーディングシューズを履いた俺の足跡よりも更に一回り大きく、俺は「アレッ、誰か今ここに来ているのかな?」と思ったのである。そしてその時は随分足の大きな人だなぁ、くらいにしか思わなかったのである。
更にその踏み跡の探索を続けていると、お馴染みの三角マーク、つまり爪痕を伴った熊の前肢の跡が現れたのだ。それは湿った泥地に付けられたもので、足跡に溜まった水にはまだ少し濁りが舞っており、その足跡はつい先ほど付けられたものに相違ないであろうことが判明した。つまり俺は、それとは知らずに先ほど通り過ぎたばかりの熊の後を、誰か人間が付けたものと勘違いして追いかけていたのである。バスケットシューズと思ったのは、指が不鮮明な後肢の跡だったのだ。
ゾッとした俺はすぐに来た道を引き返したのだが、足跡からしてかなり大きな固体のものと想像された。本州だから熊といっても所詮ツキノワ、と軽く考えていた俺は、以前秋田出身の友人から聞いた、ツキノワグマだって2メーターを越える様なのが本当にいるんだよ、という冗談ともつかぬ忠告をあらためて思い出したのである。
踏み跡の付いた鉈目を引き返す途中で、俺はやはり一本のブナの幹に誰かが刻んだ文字を見つけたのである。それにはこうあった。白石四人衆参上、昭和九年一月九日と。これを読んで俺はたまげてしまったのだが、つまりここに来たその白石四人衆なるものは、おそらく穴に篭った熊を狙って、遥々と雪の積もった山を超えてきたのであろう。
昭和九年と言えば今のように進んだ登山用具や防寒具もなかったろうし、まして深い雪の積もった一月にここまで歩いてくるのは、とてものことではなかったろう。そしてワザワザこんな所まで歩いてくるということは、つまりここが熊獲りの小屋がけとして適地であり、つまりは熊が沢山棲んでいることを示すものではないか。
俺は改めてその足跡の大きさを思い出して身震いするとともに、とてもじゃないがこんな危ない所にテントを張る気にはなれなくて、おっかなびっくりでそのまま沢を下り続け、通常往復に2日掛かると言われる渓を1日で帰り着いてしまったのだった。
この体験で俺がつくづく感じたのは、ツキノワグマだからと言ってバカには出来ないなぁ、本当に2メーターに達する固体は存在するかも知れない、ということだった。そして熊は人間と同じく、本当はブナや楢の生い茂った、明るい開けた森が好きなんだなぁ、ということだった。そんな熊達を、本来の生息地から険しい山奥へと追いやったのは他ならぬ人間達で、あそこは彼らに残された数少ない楽園の一つだったのであろう。
あの時俺は足跡に気を付けていて幸運にもそれに気付き、足跡に溜まった水に濁りが舞っているのにも気が付くことが出来たから、たぶん今があるのであろう。あのまま知らずに危険な探索を続けていたら、どのようなことになっていたかはわからない。熊の難を避けるのに足跡に注意するのが大切なことを、今更ながらに再確認させられたのである。