ディリンガムというのは、人口1,000人ほどの寒村といったところなのだが、ここアラスカではちょっとした都市といった扱いである。それはこの町の近くに多くの川が流れ込んでおり、そのいずれもが鮭の釣り場として素晴らしいからだ。夏のシーズンになると町の人口だけで2,000人余りにも膨れ上がり、そこに世界中からの鮭釣り師達がドッと押し寄せる。

このディリンガムに流れ込む大河川がヌシャガクである。長大な流れのほとんどには道路が付いておらず、移動はボートかエアタクシーと呼ばれるセスナ機によるのである。キングの遡上する早夏の頃には、近くのポーテージクリークに多くの船がひしめき、まるでサーモン銀座のお祭り騒ぎが見られるのである。

この近辺が鮭釣り場として優れているのは、先ず第一に山の標高が比較的低く、氷河の影響による川の濁りが見られないからだ。氷河のなごりである上流の湖から流れ出た水は極めて透明で、時によっては川底が真っ黒になるほどの鮭の群れを目前にしつつ、釣りをすることが出来るのである。

ヌシャガク(Nushagak)川というのは、そのディリンガム(Dillingham)の町の傍を流れる大河川である。ディリンガムは南西部アラスカの鮭釣りの首都と言っても良いであろう。川のサイズもリバートリップや岸辺からの釣りにはちょうどおあつらえ向きの大きさなので、アラスカ広しと言えども、鮭の釣り場としては常にトップクラスに位置しているのである。

さて、このヌシャガク川本流を遡って行くと、いくつかの大支流に分かれている。そのうちの一つにヌヤカック(Nuyakuk)というのがあって、更に上流はティクチック(Tikchik)という巨大な湖と、そこに流れ込む川へと続いている。ブッシュパイロットのトム・ジョンストンから近頃ここが良いらしいと情報を得た俺は、彼の機で再び上流へと飛ぶことにしたのである。

ティクチック川のどん詰まりにはニシュリック(Nishlik)という小さな湖があり、トムの機は無事その湖面へと着水した。途中一連の巨大な氷河湖の上を通過したのだが、中でも圧巻はアレン(Allen)川の渓相だった。この川は近辺では最も悪い渓相で知られ、ランク付けは少なくともXとなっている。知らずにプットインするととんでもないことになるので、ここに限らずリモートリバーに入る際には事前に十分な下調べが必要である。

さて、ニシュリックはツンドラの荒野のただ中にぽつんとたたずむ、周囲10キロほどの湖だった。流れ出しは幅7メーターほど、思っていたよりも小振りで、水深も1メーター足らずといった所だ。周囲のツンドラには熊やカリブーの付けたと思しきトラックが縦横に走っているが、その他には生き物の気配さえ感じられないほど、茫々としたアラスカらしい風景が広がっていた。

流れ込みでは全く釣りにならず、すぐにリバーフローティングを開始する。所々でチャーが、そして時折はレークトラウトも混じる。このレークトラウトは本来湖に生息しているのだが、若い固体の内は川の淵に身を潜めたりすることがある。このヌシャガク水系のレークは背中の文様が独特で、チョット目にはブラウントラウトと見まがうばかりである。開高健氏がアラスカにブラウンがいるのだろうかと驚いたのももっともな話で、「フィッシュ・オン・オン」で触れられている謎の魚は実はレークの幼魚なのである。

このティクチック、上流部の流れは穏やかなものの、滑るようにゴルジュの中を流れていく。崖の上では鷹の番が俺の突然の登場に驚き、警戒の声を上げている。ひっそりと静まり返った雄大な大自然の中を一人流れていくのは、なんとも言えない快感なのである。上流部の早瀬を過ぎると、やがて淵と瀬が交互に現れるようになった。キングの遡上は今ちょうどこの辺りに達しているらしく、瀬頭では時にキングが荒々しくルアーにアタックする。これまであまりキングに関して良い思いをしていなかった俺は、この川で一気にこれまでの憂さを晴らすことができたのである。

上流部は、流れも魚も風景も、全てが素晴らしかったのだ。そしていよいよ流れも穏やかになリ、ティクチック湖に近づくに釣れて、レッドサーモンの魚影とともに、熊の気配も猛烈に濃くなってきたのである。川のベンドごとにレッドサーモンが大きな群れを作っており、川面は赤く染まっている。ルアーを放れば魚が食い付くよりも先に、ルアーが背鰭に引っかかってスレの釣りになってしまうくらいである。レッドサーモンはルアーにほとんど興味を示さない癖に、水面からも群れの様子が手に取るように分かるので、釣り師としては精神衛生上とてもよろしくない。

そしてその赤く染まった川面のすぐ傍には、熊の足跡がベッタリと付いた川岸が続いているという訳である。岸に上がろうとして足元を良く見ると、その泥地にはつい先ほど付いたと思しき熊の足跡が、それも大きさの違うものが少なくとも数種類、ベタベタと刻印されていたのである。これはかなりのものだな、岸にはできるだけ近づかない方が良いだろう、そう考えて俺は更に先へと進んだ。

ティクチック湖の流れ込みに到着し、俺は本日の泊まり場を探すべくボートを着岸したのである。すると30メーターほどの対岸に、大きな熊がヒョコヒョコと顔を出した。奴めは岸辺に流れ付いた鮭の死骸を探すのに夢中で、目の前にいる俺の存在に気付いていない様である。俺は熊除けセットを持っているという安心感もあって、大きな声を出して熊に自分の存在を気付かせてやろうとした。熊は一瞬何が起こったんだ、という風に顔をめぐらせ、やがて俺が人間であるという事実に気付くと、ビックラこいてブッシュの中に駈け去っていったのである。

バキバキと小枝の折れる音が遠ざかるのを聞きつつ、俺はどうやらこの河口にはキャンプしない方が良さそうだぞ、と気付き始めていた。すると今度は俺と同じ側の岸から、もう少し小振りの熊が一匹歩いてくる。こいつはすぐに俺の存在に気付くと、別段どうということもなさそうに俺とは反対の方角へのそのそと歩き去っていった。

やはりここは熊が多い。鮭の集まる場所には、エサを求めて熊が多数集結するのである。俺はできるだけ安全なキャンプ地を求めて、湖を流れ出しに向かって漕ぎ出し始めた。とはいえ湖はあまりにも巨大なので、とても今日一日では流れ出しまで到達できそうもなかった。俺は所々でボートを止めては、岸辺に熊の気配がないか確認しながら先を進めることにしたのである。

岸辺には所々にやはり熊の足跡が付いていた。ある所ではその足跡に溜まった水にまだ濁りが舞っており、おれはその足跡がすぐ前に付けられたものであることを悟ったのである。危険を感じすぐにボートに飛び乗ると、俺は再び湖に漕ぎ出した。それはまだ漕ぎ出してから50メーターも行かぬ内のことだった。岸沿いのブッシュからいきなり熊が飛び出してくると、ボートの方へ駈けよって来、水中まで踏み込んで来ると鮭の死骸を咥え上げ、また大急ぎでブッシュの中へ飛び込んで行ったのだ。

一瞬何が起こったのか俺も分からなかったほどだが、つまり熊は俺が通り掛かる前に水中に鮭の死骸を見つけたのだ。しかし俺が近づいて来るのに気付いて近くのブッシュの中に姿を隠していたのである。しかし俺がその鮭の死骸に近づいたことで、彼は自分の大切な食料が奪われてしまうと思ったのだろう、慌ててブッシュから飛び出して来たという様子であった。熊は精々体長1.5メーター、まだ3〜4才の幼獣であろうと思われた。

危ない所を助かったものの、この一件で危機感を募らせた俺は、その後ひたすらボートを漕ぎ続けたのだが、日はすでに傾き始めていた。どうしても今夜はこの湖岸でキャンプをする必要があったのだ。俺はワンドになった小沢の流れ込みに上陸すると、周囲を慎重に検査して回った。その結果、流れ込みにはムースの足跡が沢山付いていたものの、熊のそれは見当たらない様だった。これまでの俺の経験からすると、ムースの足跡が多い場所に熊が現れたことはなかった。俺はそのジンクスを信じ、今晩はこの流れ込みにテントを張ることにしたのである。

辺りには細い潅木が生えているばかりだったので、食料を木に吊るすことは難しそうだった。俺はテントからはるかに離れた場所で調理と食事を済ませると、食料の入った防水バッグをかなり離れた潅木の奥に隠すことにしたのである。そしてゴムボートの臭いが熊を惹き付けることがあるという事実も知っていたから、ボートを流れ込みの沖まで引っ張っていき、テントから離れてはいるが見通しのきく湖面上に係留することにした。そしていつもの習慣で熊除けセットをテントの入り口に置くと、寝袋からその位置と手が届くことを確認の上で、眠りに付いたのである。

それはまだ辺りが暗い夜中のことだった。ザクザクと小石のすれる音で、俺は敏感に眼を覚ましたのである。いつも熊の恐怖に怯えていた俺は、今ではほんの少しの物音にも目を覚ますことが出来るほど、野生の勘が研ぎ澄まされていたのだった。俺は飛び起きて寝袋から上半身を乗り出すと、その音がなんであるのかを探ろうとした。音は徐々に近づいてくると、水の中を歩き出すジャブジャブいう音に変わった。

ムースかカリブーであってくれと願っていたが、もはや間違いなかった。それは熊で、俺の方に近づいてきていたのである。時刻は真夜中の4時、目を凝らさなければ何も見えないほどの暗闇であった。しかし音は着実にこちらへ進んでくる。そして俺のテントよりは、沖に係留したボートの方へ向かっているのがハッキリ分かったのである。俺はテントの入り口から身を乗り出すと、コラーッと大声を出して熊を威嚇したのだが、奴はまったくひるむ気配を見せない。

俺は熊除けセットを手に取ると、ファイヤーフレアガンを音のする方向に向け、発射した。パァァン、という乾いた音ともに、赤い炎の筋が一直線に湖面を進んだ。一瞬明るくなった湖面には巨大な熊の影がパッと浮かび、炎は熊のすぐ傍の湖面に着水して、水中でもゴボゴボとしばらくは炎を上げ続けていた。それは俺のいるテントより、20メーターほど向こうのことだった。

熊は一瞬何が起こったのか分からなかった様だった。一瞬の静寂の後、ウォォーという熊のビックリした声が響くとともに、バシャバシャと湖面を蹴散らしながら、奴は一直線にブッシュの方へ駈け去っていった。彼が潅木の中を走り去るバキバキと枝の折れる音が、しばらくの間は続いていた。俺は先ほど見た光景の恐ろしさに、しばらくは身動きができないでいた。熊は俺がこれまでに見た内では最大、大きさは2.5メーターに達するように思われた。奴はきっとまた戻ってくる。襲われるかもしれない。

俺は心配で心配で、もう眠れなかった。何か音がしないかと耳を澄まし、熊除けセットを手に握り締め、寒さに身を震わせながらひたすら夜が明けるのを待った。それは30分も経った頃だろうか。俺は先ほどとは反対方向から、ジャリジャリと響いてくる足音に気付いた。明らかに先ほどの熊と同じそれだった。

また来やがったな、俺は今度こそテントの傍に現れるであろう熊との戦いを想定して、熊除けスプレーの安全ピンを取り外し、奴との闘争を心に思い描いていた。しかし俺の意に反して音は途中から聞こえなくなり、俺は一体何が起こったのかと耳を澄ませ続けていたのだ。するとしばらく後に再びジャリジャリと湖岸を歩く音が、今度は先ほどとは対岸の方から聞こえてきたのである。それは徐々に湖岸を遠ざかっていき、やがて全く聞こえなくなった。全ては元の静寂に返ったのである。ほどなく夜が白々と明け始め、俺はホッとするとともに何が起こったのか考え直してみたのである。

その結果はこうだった。あの熊は自分の縄張りを見回りながらエサを探し歩く、朝の散歩の真っ最中だったのだ。そして俺のボートに気付き、何事だろうとそちらへ足を運んでいたという訳である。ところがいきなり見たこともない火の玉が飛んで来たものだから、その恐ろしさに胆をつぶしてしまったものに違いない。慌ててブッシュの中へ駆け込んだという訳である。

しかし、だからといってエサ探しを中断することはできない。やがてブッシュの中から湖岸へ降りてきた彼は、引き返す途中でまた俺のいる流れ込みへ差し掛かったのである。ここを通らなければ帰れないが、恐ろしい化け物の出る流れ込みへは行きたくない。そこで彼は流れ込みを避けるべく、湖へ泳ぎ出してそのままワンドを突っ切った挙句、再び対岸から湖岸を歩き出したという訳なのである。

これで分かると思うのだが、熊というのは割りとどん臭い、間抜けな所のある奴なのである。夜中に叩き起こされた俺もビックリしたが、彼もさぞかし腰を抜かしていたことだろうと思う。何しろ目の前にいきなり見たこともない火の玉が飛んできたのであるから。そして俺のいる流れ込みをワザワザ避けて歩く所など、如何に彼が俺という見知らぬ存在に気を使い、注意深く避けてくれていたかが分かろうというものである。

今回出会ったような大きな個体は、人間という存在がなんであるか良く理解していることが多く、人とバッタリ出くわしてもトラブルは本来少ない筈である。しかしだからといって全く安全かといえばそうも言えず、むしろトラブルを起こした場合には幼獣との場合よりもはるかに致命的であることが、容易に理解できると思う。今貴方の目の前に3メーター近い熊が立ち上がっているところを想像してみるが良い。鉈で叩いて撃退なぞというのが全くの幻想であることが、心の底から理解できるであろう。熊は確かに人を積極的に襲うことは少ない。しかし常に例外はあり、そしてその例外がたまたま3メーターの大熊である可能性も、また否定することはできないのである。