新冠ダムというのは、新冠川上流部に設けられた発電用の巨大ダム湖で、一時はメーター近いブラウンがいるというので、話題に上った釣り場である。新冠の他にも、静内や春別など近辺の湖川では、レインボー、ブラウン、ブルック等の外来種の放流がなされている様だ。

ダムの工事人夫によると、上流からの放水を工事で止めた際に、どこからともなく集まってきた巨大なブラウン達に肝をつぶしたということだ。その時人夫が即席に鉄筋を鉤の手に曲げて、一匹の捕獲(90cmほどの固体だったそうだ)に成功したそうだが、逃がしたものはそれよりはるかに大きかったと言うのである。

新冠にはふもとのこの大きなダム湖と、上流部に設けられた取水用の奥新冠ダムがある。どちらも熊の生息域だが、より上流部の方が熊の気配は濃厚な様だ。この上流部のダムは往年の名釣り場の一つで、かつては潜水艦クラスのアメマスが入れ食いで掛かったものである。現在でも型は大分小さくなってしまったが、尺程度の岩魚が手軽に揃う釣り場として、地元の人間には人気がある。

しかしこの奥新冠に到達するためには、とても長い林道歩きを強制されるのだ。その距離、20キロあまり。もちろん日帰りでは日程的に難しいから、普通は背中にザックを背負っての退屈なダラダラの上り道となる。林道は途中に頑丈なゲートが設けられているため、車やオートバイでは通り抜けられないようになっているのだ。

この歩きを逃れようというので、地元の人間には林道のゲートの鍵をダムの工事人夫や電力関係者、営林署から調達したりする様である。あるいは伝手を頼って借りたものをコピーしたり、場合によっては一本いくらで闇で買うこともあると聞く。売る方にしては良い小遣い稼ぎな訳で、いくら鍵を新しいものに取り替えても、不正に林道のゲートを通り抜ける輩は後を絶たない。

話がつい脇へ反れた様だが、この長い林道をテクテク歩いていると、熊の糞を実に良く見かける。所々に流れ込む小沢の近くに特に多いようだが、つい先ほど漏らしたに違いない下痢便なども落ちていたりして、一人ぼっちだとチョット嫌な気分がするものだ。

奥新冠のダムまで辿り着くと、大抵のキャンパーは営林署の管理する造林小屋へと転がり込む。テントを省いて背負う荷物を少しでも節約するために、進んで小屋泊りを選択するという訳だ。ここは幌尻岳への登山道にも通じているので、ベースキャンプとして登山者の利用も多いのだ。この造林小屋自体では、俺は熊の出没を耳にしたことはない。しかしここは人の出入りが多いので、食べ物の管理をルーズにしていれば、熊に襲われる確率はとても高いのではないかと思う。

なぜなら、所々にまだうっすらと雪の溶け残る春の雪解け直後の頃など、湖の流れ込みに通じている林道跡を辿っていると、明らかに熊の踏み跡とわかる獣道が、クッキリと奥へと続いているからだ。雪の下から伸びた潅木を邪魔臭がって、熊が足で枝を折り倒した踏み跡が、彼の爪の跡ともにハッキリと見て取れることであろう。

この流れ込みは尺物の上がる好場所だが、少し川を上流に遡ると、すぐに右から大きな沢が流れ込んでくる。この上流は結構なゴルジュとなっているが、このゴルジュの先で俺は生まれてはじめて熊の姿を目にしたのだ。その時俺はゴルジュの滝登りが楽しくて、自分の沢登の技量に一人ほくそ笑みながら遡行を続けていたのだが、ゴルジュもそろそろ終わり沢が開けてくる辺りで、ふと目の前20メーターの所を横切る黒い物体に気付いたのだった。

最初、うん?なんだろう??というのが正直な感想だった。しかし石のコロコロ転がる音に、アレは幻覚じゃない、こんな人里離れた所に、しかもゴルジュの奥に、人間などいる筈がないではないか。アレは間違いなく恐れていた熊さんである、という事実を再確認したのである。

走るとヤバイ、という予備知識くらいはあったので、俺は後ろを振り返りつつゴルジュをソロソロと引き返した。そして100メ−ター余りも現場を離れた時、徐々に速度は歩きから速歩に、そして最後には完全な走りにと移行したのだった。思い返すだけでも、俺はアレくらい早くゴルジュの中を移動した記憶はない。2キロほどの滝また滝の悪路を、30分ほどで走り抜けたのだった。

下流部に残して来た後輩達は、ノンビリと滝壷で釣り糸を垂れている最中だった。「おい、熊が出たぞ!」との俺の一言で、彼らは恐れおののき慌てふためいて、彼らの内の一人は大切なカメラを胸にぶら下げたまま、足を滑らせて川に転げ落ちてしまったほどである。

北海道においては、熊の姿というものは、自ら探し求めて歩き回ってみても中々見ることが出来ない、それくらい珍しいことである。それくらい彼らは用心深いし、注意深く人間を避けているもののように思われる。しかし踏み跡や糞、鳴き声といったサインは別で、秋頃には牛のような鳴き声を、下流の新冠ダム辺りでも聞くことが出来る。ンモゥゥゥ〜という風なあの鳴き声である。もちろんこんな山中で牛が飼われている筈もなく、紛れもなく熊のそれなのだ。

俺はかつてこのダム湖で、メーターもののブラウンを仕留めようと思って、一ヶ月近くも車中泊で頑張ったことがある。それは9月から10月にかけてのことで、アチコチで竿を振り回しては毎日ボウズを重ねていたのだった。ダム湖には湖の周囲を周回する林道が設けられている。手前の林道は発電所や奥新冠への通り道になるために、交通量も多く、道は整備されている。しかし対岸のそれはほとんど車の通行もなく、所によっては車が通行できないほどに道が荒れているのだ。

俺はこの林道の傍で、熊に吼えられたことがある。林道の脇には熊笹が生い茂り、一人ぼっちの俺は、熊怖さから時折「ボン」という破裂音を出して、熊に己の存在を知らせ(るつもり)ながら、車への帰り道を急いでいたのだった。その時藪の中から「ウォー」とも「ウゥウ」ともつかない吼え声がいきなり響いてきて、俺は思わず足を止めたのである。

場所は林道脇の熊笹と潅木の中、距離にして20メーターほどの所と思われた。熊のハッキリした姿を探し求めつつも、俺はこのまま足を止め続けていてはまずいという判断が働いて、その場からゆっくりと遠ざかったのである。熊は俺の跡を付けて来たりはしなかったようだった。大きさもどれくらいかわからない、姿さえ見えなかったし、アレが熊であったかどうかの確認さえ出来なかったのだ。しかし俺は、やはりアレは熊だったのだと信じる。まさか鹿がウォーとは吼えないだろうし、熊の他に思い当たるものがないのである。新冠ダム、秋の頃なら熊の鳴き声を聞くのに打って付けの場所と、その時知った次第である。