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トギアク川は、氷河期のなごりであるアッパートギアク湖から流れ出し、トギアクの村まで100キロほどを緩やかに流れている。渓相は比較的穏やかで、瀬のクラス分けでもせいぜいUといったところなので、初心者でも安心してフロートトリップが楽しめる中規模の川である。この川はドッグサーモンの遡上量がアラスカでも指折りなことで有名であり、鮭の魚影はとても濃いとされている。
キングサーモン村で泊まっていたB&Bのオーナー夫妻から、良いパイロットがいると紹介を受けた俺は、ディリンガム在住のブッシュパイロット、トム・ジョンストンにアッパートギアクまで飛んでもらうことにした。アラスカで生まれ育った彼は、通年ディリンガムに住んでいる生粋のアラスカンで、ブッシュパイロットとしての腕も一流だった。実はアラスカのブッシュパイロットと言っても、冬は暖かいカリフォルニアやフロリダに移り住む者が多いのだ。いわゆる本当に地元の人間は、それほど多くはないのである。
無事トギアク湖に着いて飛び立つ時に、トムは言ったものである。必ず無事に帰還したら電話を一本入れてくれ、それでお前が無事に帰ってきたことがわかる、じゃないとお前の捜索をおっ始めなければならないからな、と。アッパートギアクは比較的小さな湖で、水深も深くはなさそうだった。流れ出しで小さな北極岩魚がいくつか釣れたが、型に不満足で、すぐにリバーフローティングを開始する。川幅は狭くて、所により5メーター足らず。倒木が川をふさぎ、川岸の枝に引っかかりそうになる。
淵で大きな魚を見つけて興奮したものの、ルアーにもフライにも全く興味を示してくれなかった。どうにも癪である。この上流部では結局、アークテックチャーとグレーリングくらいしか釣れなかった。そうする内、川はほどなくローワートギアク湖に合流した。この湖は上流のものと比べ物にならないくらい巨大で、長径は直線距離でも20キロはゆうにある。幸い好天続きで湖面は凪ぎだったものの、ひたすらオール漕ぎに終始することとなった。
ただオールを漕いでいるだけというのも癪な話だったので、所々で気のないキャスティングをしてみたり、トローリングまがいに竿を足の間にはさんで舟を漕いだりした。すると妙なもので、グィッと強い引きが来たので喜んでいると、上がって来たのは銀色に輝く小振りの鮭だった。最初は、なんだろう、やせた小型のキングだろうか、と訝っていたのだが、どうやらキングに次いで遡上のはやいソックアイサーモン(婚姻色が鮮紅色なのでレッドサーモンとも)らしかった。この鮭は全く気まぐれであり、100匹の群れの中に100回ルアーを投げたところで、全くかすりさえしないことが多いのだ。先ほどの大きな魚影が興味を示さなかったのも、頷ける話だった。
このソックアイ、日本では陸封型のヒメマスとして知られているが、チップと呼ばれて珍重されることでもわかる様に、食味の良さでは有名だ。早速近くの湖岸に立っていた鮭の番小屋に転がり込んで、一本丸ごとの焼き魚にして楽しんだ。しかしいかに小振りとは言え70センチもある鮭のことだから、一本丸々は一人では食べきれない、結局食べきれない分は焚き火の中に放り込んで燃やしてしまったのだ。何とも贅沢、いや勿体無いことをしたものだ。これ以後、俺はよほどの必要に迫られない限り、釣った魚はすべて放流で通すことにした。
湖の流れ出しは上流のものよりずっと大きく、川幅30メーター余り、もはや大河と呼べる幅に広がりつつあった。そしてしばらく下ると、俺は北海道で良く目にする光景を見つけることができたのである。それは待ちに待った鮭の群れで、水深1メーターほどの所に定位しているのだ。見たことのない者にはそれとわからぬ魚影も、そんな光景を良く目にしていた俺には、雰囲気だけですぐにピンと来たのだった。それは先ほどのものとは違い、ルアーやフライにも良く食いつくドッグサーモンだったのだ。さてそれからがお祭りの始まりだった。河岸には明らかに熊のものだと思われるトラックが続いていたが、魚が釣れることで有頂天になっていた俺は、そんなことに逡巡している余裕がなかったのだ。
俺は鮭の溜まりごとに船を止め、5匹、10匹と数を拾いながら、下流に旅を続けていた。今日はもう30匹ほども釣り上げたろうか、俺はとあるベンドでまた鮭の群れを見つけ、ボートを岸に寄せると、竿を持って瀬頭に向かった。そこには確かに誰かが今しがたまで釣っていたような、川苔の剥げた白っぽい跡があった。アレッ、誰かこの辺まで釣りに来ているんだな、俺はそういう風に考えて、別に気にも止めなかった。淵は沢山の鮭達で溢れ返っており、時折大きな鰭がニュッと現れる。そんな彼らは、目前にフライをキャストするやいなやヒットした。
5匹も続けざまにヒットさせた後で、俺はふと後ろを振り返ってみた。そしてそれを見つけたのである。それは川原の上を、今まさに俺に向かって走り寄ってくる一匹の熊だった。エッ、嘘!というのが俺の第一印象だった。すぐにボートの方に戻ろうとしたが、熊はすかさずその気配を察知し、走る速度を一段と上げたので、俺はその努力は諦めた方が良いことを知った。ボートまでの距離は10メーター余り、熊は俺が振り返った時には、すでに20メーター後方まで迫っていたのだ。
恐ろしいことには、俺はボートをすぐ傍に止めてあるのだからという安心もあって、肩の凝る熊除けセットを首から外し、ボートの中に置いてきたのだった。困ったことになったな、というのが次に浮かんだ感想だった。最初はどうにかなるだろうと思っていたものの、段々俺は絶体絶命の立場に追い込まれていることを自覚せずにはいられなくなってきたのである。
熊は俺を睨み付けながら水の中にまで踏み込んで来、俺との距離は3メーターほどしかなくなった。奴は鼻をピクピク動かし、歯を剥き出してしきりに俺を威嚇する。白く光る牙はものすごい歯並びを見せており、フゥー、フゥーという鼻息が荒々しく聞こえる。熊が興奮している様子がしみじみと感じられた。俺は手に10フィートのフライロッドを握り締めていたのだったが、手を伸ばせば明らかにそれで熊の鼻先を突付くことさえ出来そうだった。実際それで鼻先を突付いてみようかと思ったほどだが、熊を興奮させるだけかもしれないと思い直し、とりあえず熊の目を見ながら話し掛けることにした。
熊は歯を剥き出し、相変わらず俺を威嚇しつづける。俺は思った以上に自分が困難な立場にあることを再確認させられた。なぜなら俺は今水の中に立ちこんでいるので、死んだ振りが出来ない。水の中に逃れるにしても、熊は泳ぎがとても上手であるし、すぐに追いつかれることは明白だ。彼は今、水際に俺を追いこんでいるのだ。水の中では後ろに下がることもできないし、もちろん素早い動きなど望めない。俺は必死に熊に出会った時の対処法を頭の中で反芻していた。
そして、熊に会った時は普段のトーンで穏やかに語りかけるとともに、身体を出来るだけ大きくし、相手に強そうに見せるというのを思い出したのである。俺は早速それを実行に移してみた。静かに手を頭上まで持ち上げ、胸を大きくそらして、まるでやるんだったらやってやるぞという姿勢を見せたのである。効果はてきめんだった。それまで3分近くもにらめっこを続けていた熊が、急に目を下に落し、続いて決まり悪そうに後方を振り返り出したのである。
俺はそれを熊が引きたがっているサインだと気付いた。こういう場合、攻撃姿勢を示し続けることはかえって逆効果である。俺は手を頭上に保ちつつも、攻撃する意図はないということを示すために、眼の端でその姿を捕らえつつも、彼から目を外してよそを眺める振りをした。すると熊は完全に首を俺の方から背け、ゆっくりと今度は俺のボートの方へ歩き出した。ヤバイ、あそこには熊除けセットがあるのはもちろんだが、魚の匂いが染み付いたランディングネットが転がっている。食料もタップリ載っているし、何よりボートを壊されては人家のある所まで帰ることが出来ない。
俺は理屈を超えてもう必死だった。何かわからぬ大声を出して、10メーターほど向こうの熊を追いかけながら、水の中を突進した。その余りの勢いにビックリしたのだろう、熊はほんの少しボートの匂いを嗅いだだけで、すぐにブッシュの方へ駈け去っていった。ホッとするとともに妙な功名心と茶目っ気が起こり、俺は急いでカメラを取り出すと、つい先ほど襲われかけた熊の写真を撮影した。
その結果、ごく小さいものだったものの、熊の姿をレンズの中にハッキリと捕らえることが出来たのである。しかしグズグズしていると、また出てくるかもしれない。あの熊が出てきたのは、俺が彼の縄張りの中で釣りをし、彼を怒らせてしまったからなのである。おそらく彼は獲物の一部を水中にでも沈めておいて、後でゆっくり食べる算段をしていたのだろう。そこにお邪魔虫である俺が現れたのだから、彼としては怒るのももっともな話なのだ。
俺はすぐにボートをひっばり出すと、岸を離れることにしたのだった。熊の体長は1.7メーターくらい、立ち上がればおそらく2メーターを越えただろう。体重は100キロ前後、年齢にして4〜6歳くらいと思われた。年齢の若い熊は人間とトラブルを起こす確率が高いと言われるが、今回のもまさにその通りで、おそらく俺が初めての人間だったか、もしくはこれまで人間にひどい目に会わされた経験がなかったものと推察される。
その後も川岸には鮭の魚影が濃く、俺は所々で釣りを楽しんだのだったが、それもおっかなびっくり、主に船の上からだった。そしていかなる時も必ず熊除けセットを持ち歩き、二度と同じ目に会うことがないように、釣りの前には周囲の状況やベアトラック、足跡や糞、物音、水の濁り具合などに細心の注意を払うことにしたのである。またキャンプ地においては、必ず開けた周囲の状況が見渡せる場所をテン場とし、何か音がしたら真夜中だろうとすぐに飛び起き、何が音源か状況を確認する癖をつけたのだ。もちろんこれらは食料の保存場所や炊事場所を厳格に区別し、食べ物の匂いを徹底的にシャットアウトするのは厳守した上でのことである。
熊はほとんどの場合には自ら人間を避けてくれるのだが、縄張りを侵されたと思った時には積極的に排除に乗り出してくることがある。そしてこれは人間にも当てはまることなのだが、年若い熊の方がより過激であり、攻撃的で、知識のないものほどとんでもない行動に出ることがある、ということのようであった。俺はこの旅で、このことを一つ学んだと思っている。
ところでこれは付け足しになるのだが、トギアク川中流部にはトギアクリバーロッジというコマーシャルフィッシングロッジがある。いわゆる立派な施設を誇る固定式ロッジではなく、テントでできたような俄作りのものである。このロッジ、はっきり言って最低である。というのは、俺が川を下っている際にこのロッジの傍を通りすぎたのだが、なんか生臭いなぁ、と思っていたら、なんと対岸の川岸には鮭の開きが5〜6本、これ見よがしに並び掛けてあったのである。
そう、もちろんこれはロッジの連中が意図的にやったことで、臭いに惹かれた熊がロッジの対岸に群がってくるのを、ロッジの客に眺めさせるため、そして折りに触れてはロッジからショットガンをぶっ放して、熊が驚き慌てふためく様を見物し、ロッジの客の笑い話の種にしようという目的で置かれたものなのである。
全く信じられない行為だが、アメリカ人の幾分かには確かにこんな程度の低いのがいる。北京と東京の違いが分からないような連中である。大量の金を巻き上げるコマーシャルロッジにとっては、客を喜ばせ次回の来訪を約束させることがすべて、そのためには少々法律を破ろうが、周囲の顰蹙を買う行為をしようがかまわないと思っているのである。日本人にはこんな糞のロッジには出かけてもらいたくないものだが、例え出向いてみたところで、陰でこそこそ有色人種をバカにするような連中だから、楽しい思いのできないことは必定だ。でも金を沢山払えば、表面上はホクホクの恵比須顔で接してくれることだろうが。
エッ、じゃあどのロッジが良いロッジなのかって?あいにく俺はロッジを利用したことがないので、どこが良いロッジなのかは分からない。俺のごく狭い体験で言えば、ウッドリバーロッジをお勧めする。俺はここのガイドに助けてもらった経験があって、ちょっと恩を感じているのだ。トギアクの河口部で強風と満潮のためにそれ以上前に進めず困り切っていた時、俺のボートを安全な場所まで牽引してくれたのはこのロッジのガイドである。ついでにキングを釣らしてやると、ボートからサーモンフィッシングまでさせてもらって、俺は辟易するくらい親切にしてもらったのだ。
プロのガイドにただで釣らせてもらう訳にはいかないと俺は料金を払おうとしたのだが、彼は決して受け取ろうとはしなかった。アワープレジャーというのが彼の言い分で、人を喜ばすためにガイドをやっているという彼のプロ根性に、俺は感じ入るものがあったのだ。ボーズ続きでもあくまでルアー釣りにこだわろうとする周囲の釣り人達を「アンチベイトソサエティ」と揶揄し(俺はこの言葉を聞いた時、思わず噴出してしまったのだ)、ビッグサーモンのことをオキシャケというのだろう、と変な発音で自慢する彼はとても人懐こく、ガイドというものにかなり否定的な感情を持っていた俺は、己の不明を恥じたのである。ロッジの値打ちは金額の多寡や釣果の大小ではなく、そこにいる人にこそあるのだとつくづく感じさせられた経験であった。